「みんなのこと大好きだよ!」と言う人間が今も昔も大嫌いだ | いつまでもアフタースクール
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「みんなのこと大好きだよ!」と言う人間が今も昔も大嫌いだ

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こんにちはぶんたです。

春はやっぱり別れと出会いの季節。

そう、意識しているからかもしれませんが、最近よく昔のことを思い出すので忘れない内にブログに書いておこうと思います。

備忘録、備忘録。

あとで見返したら恥ずかしいやつね。

 

学生の頃から一貫してぼくは「少数派」になりたかった

昔から一貫していることがあって、ぼくはいつの時代も少数派になりたかったんです。

そして実際に少数派になっていました。

学生の頃、クラスが盛り上がっていれば盛り上がりたくなかったし。

卒業のときだって、みんなが卒業するなら卒業したくなかった。

 

いつもいつもなぜか自分のことを「周りのやつらとはちがうんだ」と勝手に思っていました。

 

平等はありえないし、だったらいじめられる方がいい

そんな天邪鬼な行動を取っていたせいか、ぼくは昔から「平等」という言葉が嫌いでした。嫌いというより、「平等を信じる人」が嫌いでした。

だって平等なんて無いんですから。

 

中学生一年生の時、ぼくは少しの間いじめられていたことがあります。

ほぼ小中一貫校の学校だったのに、小学校からずっと一緒だった友達からも無視され、ぼくの後ろをいつも引っ付いて来ていた友達がなぜか先陣を切ってぼくのことを虐げました。

ぼくが何かをしたかと言うと特に何か大層なことをした覚えはありません。

ただひたすら、周りから無視され罵倒され。ぼくを避ける空気が3ヶ月ほど続きました。

 

それでもぼくは弱音を吐いたりはしませんでした。

弱音というか、ぼくとしては「だからなんだ」くらいの感覚だったんです。

別に今まで周りにいた友人がいなくなったからと言って、学校生活に支障が出ることはありませんでした。

ただ淡々と淡々と、ぼくは毎日を過ごしました。

 

結局そのいじめは自然消滅のような形で終わり、ぼくを以前の友人がいた頃の生活に勝手に引き戻しました。

だからといって何かが変わったわけではなく、ただぼくの感覚の中で「うっとおしいな」という感覚が芽生えました。

自分でも驚いたのですが、いじめられ少数派になっていた時の自分を少しうらやましく思ったんです。

そのくらい筋金入りの少数派人間でした。

 

「みんな大好きだよ!」なんて嘘は響かない

こうした少数派の捻くれた視点から世の中を見てきたせいか感じることがあります。

よく「みんなのことが大好きだよ!」とかいう頭湧いてるトークをする人がいます。

「いや、そんなんありえないでしょ?」ってずっと思ってきました。

 

ハッキリ言いますがそんな人絶対にいません。

嫌いなやつは嫌いだし、この世から消えて欲しい人は消えて欲しいし、好きな人は好きだし、一緒にいたい人は一緒にいたいんです。

そんなの当たり前のことじゃないですか。

 

「みんな大好きだよ!」と口々に言うリーダーシップバリバリみたいな人の心境はなんとなくわかります。

「ここでこの言葉を言うのが正解なんだ」と言わんばかりに声高らかに宣言するからです。

ぼくは正直そういった人間が大嫌いです。

 

そんな嘘すぐにわかるから。

別に嘘をつくことは否定しませんし、嘘は全然OK派なんですが、バレる嘘はダメだなと思っています。

嘘をつく判断基準はココ。バレるかバレないか。

そしてその嘘を貫き通す体裁を保てるか。これでしょう。

「みんな大好きだよ!」なんてそんな嘘。誰が信じるんだよ。そう思っていました。

 

世間は正統派に甘い

でもね。みんな結構これを信じるんですよ。

特に高校の時は顕著でした。

そう声高らかに口にする人をみんな慕いました。

ぼくは「なぜ?」という思いが滲み出た態度を取っていたのでそんな人たちとは距離をとっていました。要するに嫌いだったんです。

 

しかし、そんな人達とたまたま真面目な話をした時に「ぶんたくんは似てるから嫌いなんだよね」と言われたことがあったんです。

この時「いやいやお前嫌いなやついるじゃんかよwww」とかは微塵も思いませんでした。

そうではなく「ああ、この人わかってんだな」そう思ったんです。

 

そうなんですよね。

結局、全員に好意を伝えた方が、注目を集めやすいのは当たり前なんです。そりゃ自分から自分のことを嫌ってる人のところへ人間は出向きませんから。

だから、周りに人間を集めるための集客手段としてそんな言葉を使うわけです。

 

でもこれはぼくも同じなんです。

みんなよりも少数派でいるほうが周りの注目を集めやすいし、興味本位で近づいてくる人も少なくないんです。

当時や、中学生のいじめられていた頃のぼくがそうでした。

みんななんとなく寄ってきて、少数派にいる地位を獲得するのです。

次第にそこが大きくなれば、例えばいじめなんかは収まるわけです。

 

「みんなのことが大好きだ」と声高らかに口にする人も、少数派でいたいぼくも結局は同じことがしたいだけ。

注目を集め、人がたかり、そしてコミュニティを形成したかった。それだけに過ぎないんですよね。

 

向き合えたからこそ嫌いであり、好きになれた

この事実に気づいた時からぼくは自分のことがより一層好きになり、そして嫌いになりました。

今までぼくが毛嫌いしてきた人たちと結果は同じ。プロセスは違えど、思考の発端は一緒だったわけです。

ぼくらは同じ承認欲求を元に行動していたのです。

 

だからこそ、ぼくはひとつ言いたいことがあります。

本当に全ての人を好きでいれる人間はどれだけいるでしょうか。

そして本当に1人でいたい、少数でいたい人間はどれだけいるでしょうか。

 

結局は両者共に同じなんです。

人は群れる生き物。群れるための手段を変えただけなんです。

 

そう思えばどちらも好きになれますし、そもそもやりたいことは一緒なんですから。

だったらもう周りが支えてくれるような自分を、作るしかありませんよね。